「鬼殺し」とは聞くだに恐ろしい名の戦法である。これは昔から伝わる奇襲戦法の一つであり、いわば、アマ棋客の専用戦法でもある。今から六十年ほど昔、縁日でにぎわう神社仏閣の境内、あるいは夜店が並ぶ盛り場の大道で雨戸大の大型盤を立てかけ、将棋必勝法=鬼殺し
なる戦法を講義しながら、珍奇の定跡本を売りさばいていた男がいた。一見四十がらみの壮士風で、その名を萩野竜石と称した。彼は見物人が一応集まったところで、やおらしゃべりだした。
「やあ、やあ、お立ち合い。これよりわが輩がここ十数年間にわたって苦心さんたん編み出だしたる将棋必勝法をご伝授いたそう。これなる戦法はたとえ関根、阪田のともがらが束になってかかってこようが、たちまち木っ端みじんにふっとばしてしまう恐ろしい戦法だ。これを名づけて鬼殺しという。立て板、いや立て盤に水の流れるごとき流ちょうな弁舌で、駒を動かしながら、鬼殺し戦法の猛威ぶりをおもしろおかしくまくしたてる。関根とは十三世名人関根金次郎、阪田とは王将阪田三吉。当時の将棋界での最高位、最強者である。見物人は一手一手に拍手を送り、講義が終わるや、先を争って萩野竜石先生著わすところの定跡本=鬼殺しの巻を買ったのである。